東日本大震災復興について
3.11の災厄について,言いたいことは山ほどあるが,今さら緊急対応について論じたくはない.大切なことは,どうやって一日も早い復興をするか,そのためにどんなお手伝いができるか,である.
阪神淡路大震災の時,当時の住都公団の仲間が大勢,関西に異動した.管理人は東京で後方支援業務であり,間接的ではあったが,復興事業に参加しているという手ごたえのようなものを感じていた.ところが,今回はポツンと研究室にいる.何の役にも立っていない・・・・もちろん,ボランテイア活動に参加することもできるが,肉体労働をするには少々歳を取りすぎたし,何よりも都市開発に30年も従事した経験を直接,活かすことができない.依頼された区画整理と復興関係の論文を書いたが,イライラは募るばかりであった.やはり現場育ちである.こういうときに体を張って動かないと・・・・そんな思いで一杯だった.
5月,国土交通省から,「津波被災市街地の復興手法に関する直轄調査」の作業監理委員の依頼が飛び込んだ.「お役に立てるなら,どこでも参ります!」というところだが,原発事故で揺れる福島県南相馬市の担当である.とにかく,国交省の担当補佐,作業を委託された千代田コンサルタントや共和コンサルタントの方々と現場へ行った.津波被害の甚大さは想像を絶していた.しかし,市役所の方は「原発事故さえなければ・・・・」と悔しそうに呟いていた.市域の南を警戒区域に指定され,立ち入りもできないうえ,市民は放射能の見えない恐怖のただ中にあったのだ.その中で復興プラン作りを進めねばならなかったのである.
「南相馬市復興プラン」作成のお手伝いに夏から冬にかけて何度もお邪魔した.市役所や地域の方々の努力の末,年度末にプランはできた.その顛末は,「東日本大震災の復旧・復興への提言」(梶秀樹・和泉潤・山本佳世子編著,技報堂出版,2012.3)の第14章に少し報告させていただいた.7万人の人口が1万人まで減少し,一年経っても5万人に回復していない.こうした現実の中で,文字通りの「都市再生,地域再生」に向けて歩き出しているのだ.そんな思いを全日本土地区画整理士会報の座談会で,岩手や宮城,福島の作業監理委員を担当している先生方と論じたり,改めて専門の区画整理の勉強に取り組んだりしている.
できることがあれば,なんでもするつもりであるが,残念ながら,現地に行くたびに福島,南相馬のお土産を買いこんで,近所に配ることぐらいしか,我が家にできる経済貢献はなかった・・・・そういえば,夏の家族旅行は,福島県にしました.
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南相馬市2011.06 |
南相馬市復興市民会議2011.07 |
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南相馬市復興シンポジウム2011.11 |
南相馬小高区 2011.11 |