二回目の定年 |
私の一回目の定年は、企業を60歳で定年退職した2002年の1月でした。その後は非常勤講師および客員研究員として、足利工業大学にお世話になりましたが、この1月に70歳となり、年度末の3月でこれらが終わりとなります。これが私の2回目の定年です。 企業に在籍中から大学で教えておりましたので、学部で13年、大学院で12年の長きに亘り教鞭を執ったことになります。週に3〜4日大学に出て、前期は2科目、後期は1科目の講義を担当し、講義以外の残りの時間は委託研究や共同研究に当て、学生の卒業研究の指導なども行ないました。 講義を受け持つというのは、先ずこれを最優先させることであり、いろいろな仕事が入っても、それらは二の次となります。今まで自分の体調が悪くて休講にしたことはなく、健康に恵まれましたのはありがたいことでした。講義をしなければならないという約束と使命感は、日々の生活にメリハリをつけ、適当なストレスともなりました。また講義をするための準備は、少しは頭の活性化に寄与し、教室で若い人相手に大きな声を出すというのも、健康に良かったのかも知れません。 足利文林の第59号(2003.1)に「日々大学生に接して」のエッセイを書きました。それからもう9年が経過するわけですが大学も学生も大きく変わりました。 2010年現在で日本には778校の大学があり、600校近くを占める四年制の私立大学では、約4割で入学者の定員割れに陥り、学生の確保に汲々としています。そしてえり好みしなければ誰でも大学に入れる時代となりました。 1万人以上の学生を擁する40校ほどの大規模校が学生確保に力を入れ、その結果として中規模あるいは1000人台からそれ以下の小規模校が、余程特色を持たないと存続が危ぶまれる状態になってきました。特に東京への集中は激しく、地方の単科大学はその影響をもろに被る結果となっています。 足利工業大学ではここ10年ほどの間に大きく変わったことがあります。それは競争の激しい選抜試験をして学生を集めた時代が終わり、多くの学生を推薦によって確保する時代になったことです。入学してくる学生の中には、残念ながら高校までの基礎学力に問題のある学生も混じり、先生方が苦労されています。入学試験という一つの大きな壁を経験せずに、容易に大学に入るというのは問題あるようにも思えます。 また出席のとり方や、授業の進め方も変わりました。私の担当の授業の中には、多いときには140名を超えるマイク使用の授業もありました。100名以上の出席をとるのは時間的にも整理するのも大変ですから、私は出席をとらずに中間・期末の2回の試験で単位認定し、出席点は考慮しないことにしておりました。それが2年前から携帯電話によって出席が把握できるようになったのです。これはモバイル出席システムに、当日の授業前に先生が二桁の数字の出席登録用キーワードを登録し、教室で授業開始後に、学生が携帯電話からその教えられたキーワードを登録することで、出席が把握できるようになったのです。 またパソコンを使ってのプロジェクターによる授業環境も整いました。予め授業内容をパソコンに入れておいて写せば、黒板に板書する手間は省けます。しかしこれは学生がノートをとる時間なく、どんどんと授業が進んでしまう恐れもあり、私は学生にとって良いのかどうか疑問を感じました。私の担当の伝熱工学などでは、数式を扱うことが多く、理解してもらうためには黒板や白板に板書した方が良いと判断し、私は昔ながらの板書する方を踏襲しておりました。 足利工業大学は1年前の2011年4月から、従来の5学科を再編して5つの学系に11コースを設けることになりました。詳細は省略しますが、当然、講義のカリキュラムも大きく変わります。4月からは昨年入学の1年生が2年生となり、専門の教科が始まります。そのときには新しい先生が新しい視点で授業を行なうことになるのでしょうから、私の二回目の定年時期は丁度タイミング良いときだったのかも知れません。 授業では専門のことだけを取り上げて話していても学生は飽きます。そこでできるだけ違う話、企業のことや社会情勢、経済情勢、ものの見方などいろいろなことを話すように心掛けました。大部分の学生は企業に就職していく訳ですから、自己満足かも知れませんが、企業に在籍していた人間が話すことで、私の大学における存在意義があったのではと考えていました。 企業に在籍のころから、大学生を教え指導することは、私の夢でした。それが10年以上に亘って遂行でき、今は大きな達成感を感じております。終わりにお世話になった皆様に感謝申し上げます。 |