玄奘三蔵法師のお墓

 玄奘三蔵の遺骨を祀ったお墓が日本にあることをご存知でしょうか。お墓の場所は、さいたま市岩槻区の慈恩寺です。慈恩寺は824年に慈覚大師によって開かれた天台宗の古刹で、板東三十三観音霊場・第十二番札所として、境内は参拝や観光に訪れる人々で賑わっています。しかし、お墓は境内から数百メート離れた田んぼの先にあり、せっかく慈恩寺を訪れても、玄奘三蔵のお墓を知らずに、大半の方は帰ってしまわれるそうです。
 このことを私が知ったのは、洗心講座で太田久紀先生が講話された「法相二巻鈔講話3」の校正作業に携わっているときでした。洗心講座は足利の長林寺で月に1回開催され、太田久紀先生が亡くなられて、30年の幕を閉じました。法相二巻鈔の第17回講話(昭和63年9月11日)の中に、「来月は玄奘さんのお墓参りをしましょう。」との話しをされ、なぜ日本に玄奘三蔵のお墓があるかを説明されていました。私がまだ洗心講座に参加していないときの講話です。
 少し長くなりますが、引用すると「いま岩槻市に祀られている玄奘三蔵のお骨は日中戦争の最中に、南京で発見されています。たまたま、そこを発掘させた部隊の高森部隊長というんですが、その方が「玄奘三蔵」ということをどこかでお話をきいておられた。これは大変尊いものだというので中国の許可を得られて、分骨をしてもらって日本に持ち帰られたということなんです。----- 中略 ---- ところが分骨してお持ち帰りになってもですね、そのお骨を引き受けるところがない。奈良のお寺も空襲で危ないかもしれない。東京はもっと危ない。それで、岩槻の慈恩寺さんが引き受けて、そこにお墓をお造りになられた。玄奘さんの一番弟子は慈恩大師です。それが縁かもしれませんが、日本にいて玄奘三蔵のお墓をお参りできるなんて、まあ不思議な縁だなぁと思います。」
 これを知ったとき、何人かの知人に話しましたが、お一人を除いてこのことを知りませんでしたので、機会あれば一度現地を訪れてみようと思いました。このようなことに興味を持つ人は少ないので、一緒に現地へ行こうと誘うのも気後れして、単独行をすることにしました。思いたって好天に恵まれた2月5日、東武鉄道で西小泉駅から館林、久喜、春日部と乗り継ぎ、東武野田線の東岩槻で下車、そこからは歩きました。
 東岩槻の住宅街を北上、東岩槻小学校を右に見て、ゆるやかな坂を上がり、畑地が続く一本道を進みます。畑の畦にはタンポポの黄色い花が咲き、民家の庭の白梅がほころび、穏やかな日でした。15分ぐらい歩いたところで、右手前方の田んぼの先の小高い丘に小さく多重塔が見えました。多分これが玄奘三蔵の遺骨を祀った玄奘塔だろうと思いました。
 まず先に慈恩寺本堂の方の参拝を済ませようと、そのまま5分ぐらい歩いた突き当りが慈恩寺でした。広い境内には立派な本堂があり、参拝に来られた十人ぐらいの人たちが見受けられました。本堂の内陣へ上がって参拝を済ませてから、本堂から数百メートル離れた田んぼの先の飛地境内の丘の上にある玄奘塔を訪れました。
 玄奘塔は、東武鉄道の社長根津氏から寄進された花崗岩で建立された15メートルの十三重塔で、昭和25年3月に工事が完了し、落慶式は昭和28年5月に行なわれ、昨年建立60周年を迎えたそうです。
 玄奘塔では地元の皆さんによる接待がありました。たまたま訪れた2月5日が玄奘三蔵の命日だったのです。「般若心経」は玄奘三蔵が持ち帰ったものと聞いておりましたので、塔の前で般若心経を唱え、お参りしました。参拝のあと、焼きソバとお汁粉の接待を受け、小一時間ほど居りましたが、私が訪れたときには私を入れて3人だけの参拝客でした。それにしても、たまたま私が訪れた日が、玄奘三蔵の命日だったとは、何て運が良かったことでしょう。
 三日後の2月8日、東京へ出る機会がありましたので、上野の東京国立博物館の「仏教伝来の道、平山郁夫と文化財保護」の特別展を見学しました。奈良の薬師寺へ奉納された平山郁夫画伯による壁画「大唐西域壁画」が東京で初めて公開されておりました。この全長37メートルにも及ぶ壁画は、平山郁夫画伯が20年以上の歳月をかけて、中国長安からインド・ナーランダに至る玄奘三蔵の求法の旅を描いたものです。
 玄奘三蔵の遺骨は、薬師寺の高田好胤師から分骨を奉迎したいとの意向を受けて、昭和56年の薬師寺落慶法要に合わせて、慈恩寺からお渡ししたそうです。壁画のある玄奘三蔵院伽藍の中央にある玄奘塔に遺骨は祀られているようです。
 したがって、玄奘三蔵の遺骨のある玄奘塔の本家はさいたま市の慈恩寺で、奈良の薬師寺の玄奘塔は分家ということになります。薬師寺では立派な伽藍を建ててPRをし、それなのに本家の慈恩寺の玄奘塔のことはPR不足なのか、知る人が意外に少ないのは残念なことです。